第二十二話


 三葉躑躅つつじが咲く小道を、高耶は氏政と共に歩いていた。
 午前のやわらかな日の光が木々の合間に陰をつくる。
 高耶はふと思い立ち、道の脇にある小さなお宮の中に立ち寄った。
 朱塗りの鳥居の向こうにある斎庭ゆにわは、唐破風からはふ造りの、弁才天を祀るどこかの境外末社。
 社の鈴をチリチリと鳴らして、高耶は深く二拝した後、大きな音を立てて柏手する。
 そのまま手を合わせて、眼を瞑った。

(楽の女神よ。オレに、どうか至上の笛を奏でる力を……)

 最後に一拝して、顔を上げた。
 空を見つめる二つの眼には、迷いが無く、意志のこもった光に清々しささえ感じる。
 透き通るような色の青空。
 その後ろ姿を見つめるのは、鳥居の手前に佇む氏政だった。
 遠くから人々のさざめき声が聞こえる。
 一つ向こうの辻で、花嫁行列が通っているらしい。花嫁を乗せた人力車の、轍が地面を噛む音が遠音に届く。
 風が吹いて、社のそばの源平枝垂れ桃が、枝を振りながら花を散らしていた。
 その紅と白の花びらを、一片ずつ拾い上げて手の上に乗せる。

 春の訪れと共に、運命の一日がいま、幕を上げようとしていた。




                *




 もう間もなく花嫁が到着する。
 その知らせを、直江は離れ座敷の客間で聞いた。
 身支度を手伝う義母は、袴の紐を結び終えると手を止めて、息子の晴れの姿に眼を細めていた。

「本当に、よく似合いますよ」

 直江が身に纏うのは、直江家の家紋・亀甲花菱紋を入れた紺の麻鮫小紋かみしも。そして腰には家宝の脇差を差し、手には大刀を持つ姿を眺めながら、義母は感慨深げに呟く。

「よしてください。元服の儀ではないのですから」

 凛々しい表情を少し崩して、苦笑する息子に黒留袖姿の夫人は首を横に振った。

「いいえ、親にとって子供はいつまでも子供です。たとえお腹を痛めて産んだ子ではなくても」
「………………」

 心持ち涙ぐんで言う義母を、直江は無言で見ていた。

舟子のりこさんのことは、生まれたときから知っていますが、とても良いお嬢さんですよ。おまえとならきっと似合いの夫婦になれるでしょう」
「そうでしょうか」
「ええ、もちろん。早くかわいい孫の顔を見せてくださいね」

 直江は答えず、ただ苦笑しただけだった。
 身支度を終えると、直江は重い大刀を手に持って縁側から母屋の方を眺めた。
 白木蓮が、中庭でその清楚な花を空に向けて咲かせている。
 よくこの場所で二人、笛の稽古をしたことを思い出していた。
 沈丁花の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
 正直、これから先舟子を自分の妻として愛することが出来るのかどうか、わからない。
 おかしなことだと思う。二十歳の時から、ずっと覚悟はしてきたはずなのに。いまになってこんなに悩む。
 けれどそれはもう、出来る出来ないの問題ではない。やらなくてはならないことなのだ。直江家の嫡子として。

(そうでなければ、この道を選んだ意味がない……)

 直江は重苦しい気持ちを胸に、母屋へと足を運んだ。
 ちょうど花嫁道中の先頭が見え始めたのだろう。女中が門前で、門火を焚く準備をしていた。
 招待客たちも次々と屋敷に入り始めている。直江家と橘家の親戚を始めとして、直江の大学時代の恩師や、仕事の同僚達。新婦側の元学友と思しき若い女性達も来ていた。

「やあ、直江じゃないか」

 挨拶に忙しく立ち回る中、母屋の庭で声を掛けてきたのは、黒紋付姿の同僚・色部勝長だった。

「色部さん」
「本日はおめでとう。にしても見違えたぞ。二本差しまでして、本物の武士のようだ」

 磊落らいらくな人柄の彼は、いつもの朗らかな笑みを浮かべながら直江の肩を叩いた。

「一応、私も元武家の子ですからね」

 直江家の婚礼は、古くからの武家の礼法を多く残した形で行われる。ゆえに花婿の装いも武家の正装であるかもめ仕立ての半裃。そして武士の印である両刀を手挟む。
 その役者絵から抜け出たような佇まいに、普段からこの男の端整な容貌を見慣れているはずの色部も、思わず感嘆の声が漏れた。

「ふふん、滝口の武士≠ニはよく言ったものだ。いい男は何を着せても似合う。まったく世の中は不公平にできているよ」

 揶揄の込められたその言葉に、直江が苦笑しながら「ありがとうございます」と、頭を下げた時だった。
 視界の端に映った人影に、直江は動きを止めた。
 怪訝に思った色部が、直江の視線の方向を振り返る。

 彼らの視界に映るのは、鮮やかな黄色の花を梢につける連翹れんぎょうと、白の花をふわふわと風に揺らす雪柳。
 その向こう側に、薄紅色の光を放つぼんぼりのような桜の木が花を咲かせ、そしてその枝の下に、一人の少年が佇んでいた。
 少年は黒羽二重くろはぶたえの、五つ紋付羽織袴を身に纏っていた。
 光沢のある黒は髪の色と同じで、漆黒でありながら、そこに浮かび上がるような輝きを感じさせた。
 黒紋付を纏うのは何も彼だけではない。けれどこの存在感は何だろう。ここにいる者の中で、彼ほどにこの漆黒の衣装を着こなしている者などいはしないだろう。
 そこにいる誰もが眼を奪われた。春の情景に溶け込むような、穏やかな物腰、佇まい。
 直江は初めて彼と逢ったときのことを思い出していた。
 静かな月光の下、囁くようなか細い笛を奏でていた、夏の庭での彼の姿を……。
 長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳が、清冽な光を孕んでこちらを見据えている。

「高耶、さん……」

 茫然とした呟きに答えるように、典雅な所作で彼はこちらへ歩み寄った。
 その一挙手一投足に、息も忘れて見入っていた。
 彼は直江のそばまで来ると、あの飾り気ない笑顔を見せて言った。

「……一瞬誰かと思った。おまえの和装姿、初めて見るから」

 それはこちらの台詞だと思った。北条家の家紋である三つ鱗紋を染め抜いた黒羽二重は、その光沢といい見るからに上等の品だ。
 けれど決して服に着られていない。おそらくは普段から和装を着こなしているからだろう。
 落ち着いた態度は十代という年齢を感じさせず、ある種の風格すら漂わせていた。
 高耶は直江の裃姿の全身を見回して、どこか懐かしむように眼を細めた。

「なんだか、初めてこの家に呼ばれた時のこと、思い出すな」
「え……?」
「おまえの顔、初めて明るいところで見てびっくりしたんだ。……さっきおまえを見つけた時みたいに」

 そう言えばあの時、高耶は妙に驚いた顔をして、直江を凝視していた。
 どうして彼があれほどに驚かなければならなかったのか、いまとなってもよく分からずにいるのだが。

「私も、あなたと初めて出逢ったときのことを思い出していました」

 それは氏照の亡くなった日の夜だった。
 兄を失った悲しみを、笛の音に変えて奏でる少年の姿を、山茶花の垣根越しに見たあの日。
 直江はその記憶を噛み締めるように瞼を閉じて、もう一度目の前に佇む高耶を見つめた。

「……その黒紋付、とてもよく似合っています」

 直江の言葉に、彼は素直な表情で「ありがとう」と礼を言った。
 まるであの頃のふたりに戻ったように。
 二人はそのまま無言で見つめ合っていたが、しかしその空気を別つように後ろから氏政に名を呼ばれると、高耶は「それじゃあまた」と会釈しつつその場を離れていった。
 門の方を見れば、いよいよ花嫁行列の先頭が屋敷の前に到着したようである。直江もそろそろ祝言の間に向かわなければならない。

「美々しい若者だったな。どういう知り合いだ?」

 いままで傍らで一部始終を見ていた色部が、去り行く高耶の後ろ姿を見ながら問いかけた。
 直江は一瞬躊躇するように考えて、どこか苦しげな表情でこう呟いた。

「……彼は、私の横笛の君≠ナすよ」

 え? と、驚きに目を瞠る色部を横目に見ながら、直江は彼の追究を待たずに踵を返した。
 八年前、あの笛の音を聴いたときから心の支えであり続けていた、横笛の君。

 もう、高耶は吹っ切ることができたのだろうか。
 まるで何も知らない頃に戻ったように、穏やかな笑顔を見せていた彼。
 ひどい仕打ちをした自分を、許してはいないだろうに。

(そう……俺はまだ、彼に一言も謝罪してはいない)

 心よりの謝意をまだ口に出して伝えてはいない。
 高耶の気持ちにこたえることはできない。けれど彼を失いたくないと思う気持ちも本当だった。
 自分が謝罪の言葉を口にしてしまったら、そこで彼との関係はすべて終わってしまうような気がする。
 そのことに、こんなにも怯えている自分がいる。

 どれほど罪深いことをしているのか、わかっているのだろうか。
 彼のことを真に思うのなら、自分はきっぱりと、あの少年に別れを告げるべきだった。
 このままの関係が続いても、誰も幸せになどならない。自分も、高耶も、そして舟子も。必ずどこかで齟齬が生じて後に悔いを残すことになる。
 それがわかっているのに、どうしてだろう。こんなにも別れがたいのは……。

 松の木の焦げるにおいがする。花嫁を乗せた人力車の轍の音が、数奇屋門の前で止まったようだった。
 それを出迎えるようにして、門前では出入りの男女が臼と杵を用意し、餅をつき始めようとしていた。もうすぐ婚礼が始まるのだ。
 空を見上げて、抜けるような青い空を遠く仰ぐ。眩い春の日差しに眼を細めた時、ふと直江は気づいた。


 そういえば自分たちはまだ、一言も互いの想いを伝え合ってはいないのだ……────




               *




 直江家当主夫人の案内に従うままに、招待客たちは次々と祝言の席についていく。
 高耶も玄関口で雪駄を脱ぎながら、磨きぬかれた上がり框へと足を掛ける。
 応接間の方へ向かおうとした矢先、そんな彼に背後から話しかけたのは氏政だった。

「大丈夫なのか?」

 主語が抜けた問いに、高耶は動きを止めた。

「何がです」
「何をするつもりかは知らないが、無理をしているんじゃないか?」

 高耶は一瞬絶句して、氏政の方を振り返った。
 眼鏡のレンズ越しに、真摯な光を灯した瞳とぶつかる。
 高耶は何とも言えぬ気持ちになって、哀しそうに眼を細めた。

「兄さん、オレはもっと早く気づくべきだったんでしょうね」

 唐突に語りだした言葉を、氏政は黙って聞いていた。

「オレは孤独なふりをしていただけだった。本当はずっと独りなんかじゃなかったのに、孤独という生ぬるい檻の中に閉じこもって、可哀そうな自分を慰めていただけだったんだ」

 俯いて、白足袋に覆われた爪先のあたりを見つめた。
 あの古い家の中で、いつも何かに怯えながら卑屈に生きてきた自分の半生を、思い返していた。
 この頃自分は後悔ばかりしている。

「本当なら、氏照兄が亡くなった時に気づくべきだったのに……」

 それなのに自分は、気づくことなく彼と出逢ってしまったのだ。
 ひょっとしたら、それが最初の過ちだったのかもしれない。
 彼との出逢いを、悔いているわけではないけれど……。
 それでも考えずにはいられない。
 彼と出会っていなければ、もう少しマシな自分になれていただろうか。
 それとも、……やはり何も変わらなかっただろうか。

 氏政は俯く高耶の、前髪のあたりを見つめながら、黙していた唇をゆっくりと開いた。

「……おまえがこれからどんな道を選ぼうと、ここに変わらず、おまえを気にかける者がいることを忘れるな」

 丁寧な調子で呟かれた言葉は、心に染み入るような響きをしていた。
 高耶が顔を上げる。兄の瞳は、とても静かで真っ直ぐな光を宿している。

「それが、家族というものだから」

 思わず、息を止めていた。
 氏政はにこりとも笑わなかったが、彼の気持ちは十分にこちらに伝わってきた。
 おまえには、無条件に頼れる存在があるということを、覚えていて欲しいのだ≠ニ。
 言外に込められたその言葉を、噛み締めるように俯いた。氏政には分かっていたのだ。高耶はもう二度と北条の家に戻るつもりがないということを。
 高耶は溢れる思いを胸に、両目を閉じて呟く。
 いま、生まれてから初めて思った。


「オレは……北条の子に生まれて良かった……」


 かすかな呟きは、少しかすれていた。
 何度あの家に生まれたことを憎悪したか、数え切れない。
 あれほど好いていた母親をさえ、憎まずにはいられなかったことすらあった。
 けれど、もう二度とあの家には戻るまいと決意したいまになって、この血を継いで生まれてきたことを、初めて胸を張って誇ることができる気がしたのだ。
 そんな彼の思いが伝わったのか、氏政は確かめるように一つ顔を頷かせる。
 そして高耶に歩み寄って、背中をそっと押した。

「さあ、行こうか」

 子供をあやす父親のような目をして、彼は高耶を見下ろしている。

「……別れを言いに行くのだろう?」

 高耶はその言葉に一瞬身体を硬くしたが、唇を噛み締めながら、こくりと小さく頷いた。
 その様子を黙って見守って、もう一度弟の肩を押した。
 高耶は両足を踏みしめるようにして歩き出す。
 その瞳に、もう迷いの影は無い。




                *




 門前にて請取り渡しの儀が厳かに行われると、花嫁は人力車から降りて、媒酌人に手を引かれながら母屋座敷に入っていった。
 花嫁は眩いばかりの白無垢衣装を纏っていた。紋綸子もんりんずの打掛が春の日に反射して白く煌いている。綿帽子から覗くかんばせは、まるで腕の良い職人の作った雛人形のように愛らしく、掛け下の裾を持ちながら歩く様の可憐さは人々の溜息を誘った。
 やがて祝言の間へと入ると、花嫁は違い棚の手前に腰をおろす。
 床の間には天井から水引暖簾が掛けられ、水引には新郎新婦両家の家紋が描かれていた。白絹の上には華やかな奈良蓬莱ほうらいが置かれ、その左右に二重台と手掛台。そして手前に置鳥、置鯉、三盃、銚子、提子が一部の乱れも無く飾り立てられている。
 新郎の直江は後から室内に入ってきた。花嫁の正面に着いて、諸共に深く礼をすると、彼は今日初めて舟子の顔を見た。
 緊張に心持ち顔を強張らせた舟子は、幼さは残るものの直江の目から見てもとても美しく思えた。白無垢を纏う姿はまるで姫辛夷こぶしの花のようだった。
 自分には、彼女を幸福にする義務があるのだと自らに言い聞かせていた。
 彼女を愛する努力をしなければならない。夫婦になるとはそういうことだ。
 儀式の間、直江はずっと考え続けていた。媒酌人に杯を注がれ誓いの三三九度を交わす間も、舟子から一瞬も視線を離すことはなかった。
 あまりに不躾に見すぎているので舟子の方は恥ずかしかったのか、始終困ったような顔をしていた。けれどそんな二人の様子を同席した者たちは、若い男女の微笑ましいやり取りと受け取ったに違いない。
 式三献しきさんごんの儀を終えると、直江と舟子は晴れて夫婦の身となった。親族の堅めの杯を行って、舟子は新郎側から贈られた色打掛に着替える。
 着替えを終えた新郎新婦が次の間の上座に着いて、媒酌人の乾杯の合図と共にいよいよ披露宴が始まった。
 舟子の色打掛は、白無垢姿とは一転した鮮やかな朱赤地の鶴若松唐草模様で、金糸銀糸で施された刺繍が絹の光沢と共に煌々しく輝いている。
 直江と共に上座に居並ぶ姿はまるで一幅の絵画のようであった。絵に書いたような美男美女の構図に、祝宴の席に着く者達は「似合いの夫婦だ」と口々に誉めそやしている。
 直江の座る位置から左手の末席に座す高耶は遠い。高耶は膳に乗せられた酒にも料理にも、ほとんど手をつけずに、緊張でやや強張った表情で上座の方を見据えていた。
 彼の態度はこの目出度い祝宴の席で少し浮いている。隣に座す氏政は、そんな弟の様子を杯を傾けながら黙って見守っていた。
 しばらくの間そうして歓談を続けた後、宴の余興として直江家現当主・景綱により舞囃子まいばやしが一差し舞われることになった。
 演目は『高砂』。婚礼や正月の祝宴の席では馴染みのものである。
 囃子方を務める高耶と氏政らは、祝言の間の中央に座して、あらかじめ用意していた笛と鼓、そして太鼓を膝元に置いた。
 高耶は毅然とした表情で正面を向いている。上座から痛いほどの視線を感じていた。
 おそらく直江と舟子が自分を見ているのだろう。けれど彼はその視線を遮るように、ゆっくりと瞼をおろして、心を静かな暗闇の中に置いた。
 やがて黒紋付姿の景綱が宴席の中央、高耶たち囃子方の手前に座して、上座の主賓らに向かい丁寧に礼をした。
 そして景綱が頭を上げて、扇を手に立ち上がる。畳の上に姿勢よく立って、地謡の声を待つ。
 地謡方の男性は、低く朗々とした声で謡い始めた。


  高砂や この浦舟に帆をあげて この浦舟に帆をあげて
  月もろともに出で潮の 波の淡路の島影や


 高耶の吹く能管が、高くひしぎの音を上げた。
 高い高い、澄んだ音が響き渡る。
 その場にいる者の多くがはっと目を瞠った。
 鼓や太鼓の音、そして地謡の声と溶け合うように、笛の音色が部屋の中に流れていく。


  遠く鳴尾の沖すぎて はや住の江に着きにけり
  はや住の江に着きにけり


 景綱が合いの手にあわせ扇を持つ右手を上げる。
 すっすと舞う姿に合わせ、美しい囃子が空間に漂っている。
 その楽の音の生まれる中心に、高耶の姿があった。
 目を瞑り、滑らかな動作で笛を吹く様子はどこか艶やかな美しさがあり、見る者を陶然とした心地にさせる。
 直江はそんな彼の様子を、ひたむきに見つめ続けていた。


  有難の影向や 有難の影向や
  月住吉の神遊び 御影を拝むあらたさよ
  げにさまざまの舞姫の 声も澄むなり住の江の
  松影も映るなる 青海波とはこれやらん


 神舞に移ると、景綱の舞う手が激しくなった。
 その動きに合わせるように、囃子の方もいっそう早く激しくなる。いや実際は囃子の拍子に立方がつられているのだろう。住吉の神の神々しさを表そうとするように、笛の音の曲調はどんどん激しくなっていく。氏政の鼓の音と呼応して、高いひしぎが天を突き刺すように鳴り轟く。


  指す腕には悪魔を払い 納むる手には寿福を抱き
  千秋楽は民を撫で 万歳楽には命を延ぶ
  相生の松風 颯々の声ぞ楽しむ 颯々の声ぞ楽しむ


 地謡が、余韻を残しながら最後の一節を謡い終える。
 それと共に鮮やかな足運びで、景綱は若々しい神舞を颯爽と舞い終えた。
 途端に盛大な喝采の声が起こる。予想以上の出来だった。景綱自身も快心の出来栄えにこぼれんばかりの笑みを浮かべていた。
 けれど直江は知っていた。これは高耶の力なのだろう。彼は囃子の笛方に過ぎなかったが、その音色でこの舞囃子すべてを支配していたと言って良い。それなのに決して主役の景綱を食いつぶすことなく、どころか立方の力をぐいぐいと引き出しながら、自身は裏方の囃子に徹しているのだ。出会った当初、合奏が苦手なのだとこぼしていた彼からすれば大変な成長ぶりだった。
 しかし見巧者の多い出席者の中では、気づいた者も多いようだ。「あの笛方の少年は何者だ」と熱心に囁きあう声が直江の耳に届いた。
 舟子の方も純粋に感動し、興奮したようにはしゃいだ笑顔を浮かべていた。
 祝言の間の中央に座した高耶を見て、一旦は顔を強張らせていたものの、舞を見るうちに彼との間に生まれていた確執もいつしか忘れてしまったようだ。
 高耶は止まない喝采の中、顔の向きを変えて視線を左手の縁側に転じていた。
 障子の開け放たれた縁側の向こうには、満開の花を咲き誇らせる桜の木が、その薄紅色で庭中を包んでいた。
 梢は風に揺れ、ちらちらと淡い花びらをしずこころなく地面に散らしている。
 長閑な春の光のなか、輝くようにそこにある世界に憧れのような感覚を覚えながら、高耶は眩しげに目を細めた。


(きれいだ……)


 地に落ちた花びらがまるで雪のようだ。桜のことを「空に知られぬ雪」と称したのは、いったいどの歌人だっただろう。

 高耶は黒衣の懐に手を入れて、桜の筒を取り出すと、中から素竹の色の細い篠笛を出した。
 それにそっと視線を落として、大事そうに両手で握った。
 きっと、これが最後に吹く笛になる。
 だとしたらいままでで最高の演奏にしたい。
 自分の笛で、愛する人を幸福な気持ちにしたい。それが高耶の夢だった。
 彼は幸福になってくれるだろうか。そうでなかったとしても、自分の想いを伝えたい。
 この音色に乗せて、伝えたい。
 たとえそれが、彼との別れの旋律なのだとしても。届けて欲しい、笛の音よ。
 この胸にあふれんばかりの想いを。言葉にはならない激情を。

 いま、この笛にすべての想いを込めて────



 高耶は静かな動作でそっと篠笛を口元に構えた。
 既に客は喝采の声をやめ、景綱や氏政達は己の席に戻り始めていた。
 その中でただひとり席を立とうとしない少年に、周囲の者は首を傾げる。この後彼が演奏するという予定は無い。しかしこれから笛を吹き始めようする彼を制止する者はなく、客たちは好奇と期待の目を向けながらこの少年の様子を窺っていた。
 正面からは、直江の困惑した視線が向けられている。
 ざわざわとしたささめき声が止まぬ中、高耶は精神を集中させるように静かに両目を閉ざしていた。緊張を孕んだ空気が彼の全身を取り巻く。スッと伸びた背筋と、刃のように冴えた秀麗な横顔から、びりびりとした緊迫感が伝わってくる。
 いつしか人々も、固唾を飲んで彼の姿を見守っていた。これからいったい何が始まろうとしているのか、理解しているのはおそらく氏政だけだろう。
 一つ、二つと呼吸を続ける。全身の神経を総動員して、笛を持つ指と音を生み出す唇とに集中する。
 目には見えない威圧感。触れれば切れるような緊張感。
 ふいに風が吹き込んだ。
 緑の黒髪を揺らしながら、風は桜の花びらを室内に運ぶ。


 ひらひらと一枚、高耶の膝元に落ちた。


 すっと瞳を開けて、高耶が真っ直ぐと前を見据えた。
 正面の直江と視線が絡み合う。
 瞳の中には炎が灯っていた。



 ピィィィィィ───────



 高く涼しい音が、少年の笛から生まれでた。
 優しい音色が、刻々と旋律を紡ぎ上げる。
 今日の良き日に似合う、春風のような優しい音の束が部屋の中を包み込んでいき、その美しい音色に人々は一瞬にして惹き込まれていった。
 光を放つかのごとき音楽。笛から春が生まれ出でるようだ。高耶がそうして笛を吹く間、まるでその旋律に操られたかのようにそよ風が何度も彼の頬を撫で、白い花びらを散らしていく。
 愛しさと優しさにあふれた音だった。ともすれば郷愁にさそわれて涙を流したくなるような。
 聴く者が思わず眼を細め、思わずほぅとため息をつきそうな美しい音のさなかで、しかし高耶の瞳だけは真っ直ぐと正面を見据えて、爛々と光を輝かせていた。
 その視線の先には、直江がいる。

 直江信綱ただひとりがいる。

 やがて春の陽光のような旋律から曲調が一転する。
 それは哀しみの心に溢れるかのごとき、暗い色調の旋律だった。
 時に激しくつんざくような高音を響かせながら、魂を吹き込むように高耶は音を紡ぎ続ける。
 音が天井へと突き刺さる。多彩な音が部屋の外にまで広まっていく。
 とても笛一本で奏でられたものとは思えなかった。多くの色を帯びた音は、香気を放って部屋中を満たしていく。
 高耶の全身を、何か見えないものが包んでいるように感じた。
 指孔を押さえる指が、言葉にならぬ思いをどうにか伝えようと懸命に動いていた。

《感じ取ってくれ……直江》

 焼け付くように見つめる視線。高耶は想いのこもる笛の音を紡ぎ上げながら、ゆらぐことなく一筋に、ただひとりの男を焦げるような激しさで見つめ続ける。
 その瞳が、音が、旋律が。
 全身全霊を込めて血を吐くように叫んでいた。
 いままで心の中だけで叫んでいた想いを、決して伝えることは無かった言葉を。
 いますべての想いを込めて告白する。
 笛の音を聴くだけで、この心を察してくれるというのなら、
 いまこそ聞き届けて欲しい。
 伝えられなかった、本当の気持ちを。
 おまえへ向けるこのあふれんばかりの激情を……!
 届けてくれ。誰よりも強く。



 《愛しているのだと……!──────



 誰もが言葉を失していた。
 神がかりすら感じさせる旋律。息ができなくなるほどの、畳み掛けるような圧倒的な音曲。
 氏政はふるえる腕を止めることができなかった。
 おそらくこれが、弟にとって最後の笛の演奏になるだろう。
 その全身全霊の魂を込めた奇跡の演奏に、高耶の最後の笛に、立ち会うことができたことを、氏政は感謝していた。
 氏政だけではない、直江の両親も、橘の家の者も、色部も、女中たちも、その場に居合わせた人々すべてが、この奇跡の瞬間を目撃し、愕然と目を見開きながら言葉すらなく引き込まれていた。
 もはや微動だにする者さえ存在しない。呼吸すらひそめて、この少年の奏でる音に聴き入っている。その眼にわずかに涙すら浮かべながら。
 舟子の顔は青ざめていた。
 奏でられる哀しみに同調し、涙が込みあがるのを止められない。
 高耶の奏でる旋律、その一つ一つに切ない想いが伝わってくる。
 それは舟子にも覚えのある種類のそれだった。
 叶えられない想い。届かない心。誰かを愛しく思う気持ち。
 そして同時に、一直線に直江へと向かう、強い意志を宿す高耶の瞳に、舟子はようやくすべての疑問が融かされていくのを感じていた。
 隣に座る直江を振り返る。

(もしかして……この二人は……っ)


 風の揺れが音と混ざり合い、交響楽を奏でる。
 まるで植物が最後の力を振り絞り、満開の花を咲かせるように。
 香気すら漂わせながら響くこの音を、いったい、何と表現すれば良いのだろう。
 いくつもの重なる呼吸が、音の中に溶けて消えていく。
 直江は静かに立ち上がっていた。
 その場に臨む人々の視線を一身に集めながら、それにすら気づくことなく、直江はずるずると前へ進んでいく。
 やがて高耶の目の前で立ち止まった。
 苦しげに眉を顰める直江の視線と、真摯にその様子を見上げる高耶の視線。
 ふたつの視線が至近距離で交錯する。
 するりと畳の上に肩膝立てて、直江は高耶と同じ視線に立った。
 絡み合う視線は一瞬も揺れることはない。挑むような眼差しで、高耶は直江を見つめている。
 なおも奏で続ける笛の音を、一つ残らず自分の中に取り込もうとするかのように、直江は一心に聴いていた。
 高い音。低い音。そのすべての音に、いままで過ごした二人の思い出が、映し出されているのを感じていた。
 その鮮烈なまでの思いを。どんな告白よりも強く、直江は余すところなく聞き届ける。

 二人見つめあいながら、聴き続ける。

 笛は最後の山場を迎え、魂が燃え尽きるかのように激しい音を響かせながら、やがて静かな収束を迎えていった。
 最後のかすれた音を吹き終えて、高耶は篠笛をゆっくりと唇から離す。
 曲が終わっても、辺りは嘘のように静まり返っていた。
 誰も声を発しようとはしなかった。
 まるで空間すべてが凍り付いてしまったように、人々はただ無心に、祝言の間の中央に座す二人の様子を伺っていた。

 その凍りつく沈黙を破ったのは、男の小さな呟きだった。


「どうして……」


 直江が肩を揺らしながら、苦しみを吐き出すようにかすれた言葉を搾り出す。


「あなたは……今頃になって……ッ」


 苦悶に歪む右眼の目じりから、涙が一筋こぼれ落ちた。
 後の言葉が続かない。
 全身が、ぶるぶると震えだしていた。
 それが怒りだったのか、哀しみだったのかは分からない。
 ただ一つ分かるのは、直江の鳶色の瞳が、高耶に向けられた愛にあふれていたこと。
 直江はふるえながら歯を噛み締めていた。
 無念の思いを込めて、拳を握り締める。
 今頃になっても遅いのだ。
 気づいたとしても、もう手遅れなのだ。
 何が一番大切だったのか、その答えを、今頃になって気づいてしまった。
 もうあふれる想いをとめられなかった。
 ……愛しているのだ。こんなにも。
 決して、報われることなど叶わないのに。最後の最後になって、自分はもう、これ以上自分の心に嘘をつけなくなってしまった。
 涙を流しながら、心から思う。



 家のことなんか、どうだっていい。
 高耶が欲しい。
 仰木高耶だけが欲しいのだ……。



 目じりから涙を流す直江を、高耶は切なげに見つめていた。
 これが自分の見る、彼の最後の姿になるだろう。
 高耶は瞼をゆっくりと閉じた。纏いつく未練を断ち切るように。
 背筋を伸ばし、前を向いて。
 後悔などしないように、瞼を開けて彼の最後の姿をその瞳に焼き付ける。
 そして静まり返る部屋の中で、毅然とした態度で、高耶はその澄んだ声音で言った。


「伯牙琴を鼓し、鐘子期これを聴く=v


 朗々とした声は、揺れることなく言葉を紡ぎ上げていく。


「琴を鼓して志、太山に在るにあたりては、鐘子期曰く、『善きかな、琴を鼓するや。巍巍乎ぎぎことして太山のごとし』と。少選の間にして志、流水に在れば、鐘子期また曰く、『善きかな、琴を鼓するや。湯湯乎しょうしょうことして流水のごとし』と=v


 息継ぐ間もなく、高耶は畳み掛けるように頭の中にある一文を朗誦した。
 それは漢文の『絶弦』の故事の一節であることを、その場にいる多くの人々が知っていた。
 琴の名手である伯牙は、聴くことの名人である鐘子期と出逢う。
 伯牙がどんな思いを込めて琴を奏でても、鐘子期はその音色を聞くだけで、伯牙の心を誤ることなく言い当てて見せた。
 『絶弦』。それは自分を理解してくれる相手との友情の美しさを表す故事だった。
 しかしこの故事にはまだ続きがある。


「……鐘子期、死す=v


 低く通る声が、部屋の中に響き渡った。
 高耶は臆することなく直江を見つめながら、まるで挑みかかるように、次に続く言葉を魂をこめて読み上げる。

「伯牙、琴を破り弦を絶ち、終身また琴を鼓せず=v

 高耶が黒紋付の袷せに手を差し入れる。そこに隠されていたものをすっと抜き去り、両手で掴んで直江に構えた。
 瞳に鋭い光が宿った。
 ざわりと人々がどよめく。


以為おもえらく……世に復た為に琴を鼓するに足る者無しと!=v


 叫ぶと共に、高耶は片膝立てて身を乗り出した。
 その手に光る刃に、恐怖の声が上がる。
 彼が手に持つのは剥き身の短刀だった。
 その鞘を纏わぬ切っ先が、過たずに直江の胸を指し示している。
 周囲の者がざわめき始めた。けれど高耶の放つ凄まじい気迫に慄き、止めようとする者は誰もいない。
 切っ先がわずかに震えている。高耶の鋭い眼光は愛しい男を切に睨みつけていた。

 荒くなる呼吸の中で、けれども直江は静かな瞳をしていた。
 まるでその刃を包み込んで、高耶のすべてを受け入れようとするように。
 ただ静かに高耶の様子を窺っているのだ。
 ずるいと思った。
 どうして最後の最後になって、そんな優しい眼をするのだ。

 震えを抑えつけるように、短刀の柄を力いっぱい握り締める。
 高耶は苦しげに眉を寄せると、丹田に力を込めて、身体を前に乗り出した。
 人々の悲鳴が上がる。
 右手で振り上げた短刀が、日の光を受けて鋭く閃く。
 渾身の力を込めて振り下ろした。




 ザンッ!




 静寂が室内を支配していた。
 直江は間近にある、高耶の黒髪の頭を、ただ茫然と見つめていた。
 高耶の細い肩が、ぶるぶると震えている。
 何が起きたのか一瞬理解できなかった。
 彼の手元には、畳の上に深々と突き刺さった短刀がある。
 そしてその横には、無惨なまでに真っ二つに割れた篠笛が、カラコロと音を立てて畳の上に転がっていた。
 直江が彼に贈った笛だった。
 高耶が何よりも大切にしていたものだった。

 高耶がそっと顔を上げる。
 瞳は涙に濡れていた。
 何か言おうとしたが、言葉にはならずに、唇をぎゅっと噛み締める。

「高耶さん……」

 優しく呼ぶと、彼は無言で俯きながら手元に転がっていた篠笛の破片拾い上げた。
 真っ二つに割れた素竹の篠笛。ひとつは己の袂にしまい、もうひとつの破片をそっと直江に差し出す。
 直江はしばし躊躇して、彼から破片を受け取った。

 その時の高耶の表情を、なんと表現すれば良いのだろう。
 見上げる瞳から涙がこぼれおちる。
 その澄んだ瞳は真摯に直江を見つめ、万感の思いのこもった微笑みを浮かべていた。
 だから直江も、これ以上無いほどの愛おしさを込めて、穏やかな微笑を彼に向けて浮かべたのだ。


 高耶はすっくと立ち上がった。
 そして何も言わずに踵を返し、畳を踏みしめて歩き出す。
 そこに臨むすべての人々の視線を集めながら、彼は迷いない足取りで祝言の間を後にし、庭に面した縁側を歩いていく。
 直江はそのままの姿勢で、去り行く彼の後ろ姿を見つめていた。
 桜の木がさわさわと枝を揺らしている。
 高耶は俯いていた顔を上げて、こぼれる涙を指で拭った。
 眩しい光が差している。風が暖かい気をまとい頬を撫でていく。
 こうして何事もなく春はそこにあり、そして季節は音も立てず移ろっていくのだ。
 高耶は長い廊下を歩き続ける。あの男のいない人生に向けて、彼は進み始める。


 きっと、これからもこの道のりの先で何度も立ち止まるだろう。そしてあの男のことを懐かしく思うだろう。
 たとえ彼が自分のことを忘れたとしても、自分はあの男のことを忘れない。
 心の中で、この想いをずっと抱えて生きていく。
 
 あの男が与えてくれた数々の幸福も。
 憎しみも、哀しみも、そして愛しさも。
 そのすべてを抱えて、自分は一人歩いていくのだ。

 閉じた瞼から、再び涙がすべり落ちる。
 けれど歩む足を止めはしない。
 明日、あの男は自分のそばにいなくても。
 どんなにそれを、哀しく思っても。
 ……それでも人は生きていけるのだから。



 穏やかな日の光の中、高耶はそうして新たな道を歩みだした。
 たとえ止め処ない淋しさに涙が頬を流れても、


 ……振り返ることだけは、決してなかった。


高山流水
篠笛愛別物語
2006*9*23
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